18歳から『津山民藝社』で民芸品の竹細工を作り続けている白石靖(きよし)さん。
呼吸の音がはっきり聞こえるほど静かな室内で、ひとり、作品と向き合っている。
ベレー帽に作務衣という出で立ち、眉間にしわを寄せた険しい表情、納得がいくまで何度も微調整を繰り返すその姿は、まさに熟練の職人。
“THE・日本の職人”といった雰囲気に、ひるんでしまう。
話しかけてよいものかと逡巡していると、私の存在に気付いた白石さんは、中に入るよう優しく促してくださった。
創業62年目の『津山民藝社』で、長年、竹細工を作り続けてきた白石さんは、どのような経緯で竹細工と出会い、どんな想いで作品を生み出してきたのか。戦後の高度経済成長期を走ってきた白石さんの、波乱に満ちた人生に迫ります。
民芸品は芸術品?




だから、値段の方が先に決まるんですね。買ってもらうためには、相応の値段を付けないといけないんです。

例えばおみやげの相場が 1000 円だと…




18歳で竹細工職人の道へ





ちなみに、ケンカの原因はなんですか?お父さんがお師匠さんで厳しい修行の日々が…とか?

親父はそれまで焼き物や竹細工のいろんなお土産品を扱ってたんだけど、そういうものを海外に輸出するのが夢だったんです。それで、当時まだ駆け出しだった私にプレッシャーをかけてきたわけ。それが嫌でね。






ジャージー牛から生まれた作州牛


ジンギスカンを食べたり、川の水でお米を炊いたりしたんだけど、これを指導してくれたのが、八束村の村長。このひとが戦時中はモンゴルへ出兵していて、「モンゴルの光景が大変素敵だった」ということで、再現しようと三木ヶ原にジャージー牛を連れてきたんですよ。
そのジャージー牛を親父が見て、「これを竹細工で作ってみろ」と言うんです。








この牛を試しに10個ほど作って、奥津温泉に持っていったら、あっという間に売れたんです。そのあともどんどん発注が来て、湯郷温泉、湯原温泉にも卸すようになりました。
竹の釘で大金持ちに…!?










その代わりに、トラックいっぱいの菜種油をもらえることになったんです。




そんなわけで、うちはこどもが8人もいたから、税金が払えなくて、家財一式に差し押さえの赤い紙が貼られたことがありました。軍に納めていた水筒が大量に破棄されているところを親父と通りかかって、「あれはうちの水筒なんだよ」と教えられたこともあります。
辛かったですね。そんなことがあったから、作州牛をはじめ、自分がつくったモノが売れるというのは嬉しかったです。
▲白石さんが作成した、竹を研磨する装置。カラカラと小気味良い音が響く。
津山民藝社はダンスホールだった!?






それから、作州牛がたくさん作れるようになって、たくさん売れるようになったから、親父は実業家として息を吹き返したんです(笑)


そのころには、私に経営権があったから、工場を物産館に変えて、観光バスが停まれるようにして、お客さんを呼び込んだんです。それぐらいの時期に岡山駅まで新幹線が通ったから、ツアーのお土産に組み込んでもらったり、岡山の物産館にも作州牛を置くようにしたら、これが飛ぶように売れて。だから、たくさんひとを雇って、大きい工場を作ってね。
でもまあ、時代の流れの中でいろいろあって、いまはこうしてひとりでやっています。結局、私は経営者には向いてないね(笑)
▲分業で大量生産していた頃の風景。手先が器用な女性の従業員が多かった。
毎年変わる干支の玩具たち














―――
白石さんは話し終わるとすぐ、製作作業に戻られた。津山民藝社の室内は、再び、規則的な呼吸の音のみが聞こえる静寂な空間へと姿を変える。
ベレー帽に作務衣という出で立ち、眉間にしわを寄せた険しい表情、納得がいくまで何度も微調整を繰り返すその姿は、まさに熟練の職人であり、さきほどまで笑いながら饒舌に話してくださった方と同一人物とは思えない。
職人として、経営者として、戦後の荒波の中で自ら舵を切って走ってきた白石さん。芸術家とは異なる、民芸品作家の人生を垣間見ることができました。親子二代に渡る、興味深い物語でした。
▲過去12年に白石さんが生み出した干支の玩具たち。「動きがあること」と「動物の特徴を表すこと」を考えて作られている。
【津山民藝社データ】
住所:岡山県津山市田町23
電話番号:0868-22-4691

タケ

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