時代の荒波を航海する民芸品工房-津山民藝社-

18歳から『津山民藝社』で民芸品の竹細工を作り続けている白石靖(きよし)さん。
呼吸の音がはっきり聞こえるほど静かな室内で、ひとり、作品と向き合っている。

ベレー帽に作務衣という出で立ち、眉間にしわを寄せた険しい表情、納得がいくまで何度も微調整を繰り返すその姿は、まさに熟練の職人。

“THE・日本の職人”といった雰囲気に、ひるんでしまう。
話しかけてよいものかと逡巡していると、私の存在に気付いた白石さんは、中に入るよう優しく促してくださった。

創業62年目の『津山民藝社』で、長年、竹細工を作り続けてきた白石さんは、どのような経緯で竹細工と出会い、どんな想いで作品を生み出してきたのか。戦後の高度経済成長期を走ってきた白石さんの、波乱に満ちた人生に迫ります。

 

民芸品は芸術品?

 

タケ
こんにちは。今日は白石さんが作る民芸品について教えていただきたくて、お話を伺いに来ました。
白石さん
そうですか。何から話そうかな…。芸術品と民芸品の違いはご存知?
タケ
えっと…なんでしょう。わかりません。
白石さん
芸術品というのは、お金や時間がいくらかかってもいいから、自分が 100%納得するものを目指して作るものなんですよ。それに対して、民芸品はお土産や日用品として発展したもので、まぁ、いわゆる量産品です。
だから、値段の方が先に決まるんですね。買ってもらうためには、相応の値段を付けないといけないんです。
タケ
芸術品は自分が納得するものを作って、あとから値段がつく感じですが、民芸品は先に値段が決まっているから、その値段で利益が出るようなものを作る必要があるんですね。
例えばおみやげの相場が 1000 円だと…
白石さん
デザインから、1000 円で利益が出るものを考えないといけないわけです。
タケ
自分が納得するまで作り込んだら、1000 円では利益が出ないですもんね。
白石さん
そう。だから、いかにして手間を省いて、小売店が要求するもの、お客さんが買ってくれるものを作るか。まずここを考えるんです。

 

 

18歳で竹細工職人の道へ

 

タケ
白石さんは職人になってから何年になりますか?
白石さん
18の時にはじめて、今年で79だから…
タケ
61年!?
白石さん
でも、間の3年くらいは親父とケンカして東京に行ってたから、実際はそんな長くないよ(笑)
タケ
61年のうちの3年くらい大目に見てください(笑)
ちなみに、ケンカの原因はなんですか?お父さんがお師匠さんで厳しい修行の日々が…とか?
白石さん
いや、親父は職人ではなく実業家です。私に師匠と言える師匠はいませんでした。
親父はそれまで焼き物や竹細工のいろんなお土産品を扱ってたんだけど、そういうものを海外に輸出するのが夢だったんです。それで、当時まだ駆け出しだった私にプレッシャーをかけてきたわけ。それが嫌でね。
タケ
ご兄弟は?白石さんが長男ですか?
白石さん
私は8人兄弟の7番目。上に兄が3人、姉が3人、妹が1人だね。
タケ
お兄さんたちはどうやってお父さんのプレッシャーから逃れたんでしょうか?
白石さん
私が竹細工を始めたときには、一番上の兄はもう就職していました。その下の兄2人は陶芸の道に入っていたから、残った私がやることになったんです。
タケ
職人になる運命だったんですね。

 

 

 

ジャージー牛から生まれた作州牛

 

タケ
『津山民藝社』というと、作州牛の竹細工が有名ですが、これはどうやって生まれたんですか?
白石さん
昭和 30 年、私が18歳のころに、三木ヶ原でキャンプをしたんです。名前の由来になっている、当時の三木知事に招待してもらって。
ジンギスカンを食べたり、川の水でお米を炊いたりしたんだけど、これを指導してくれたのが、八束村の村長。このひとが戦時中はモンゴルへ出兵していて、「モンゴルの光景が大変素敵だった」ということで、再現しようと三木ヶ原にジャージー牛を連れてきたんですよ。
そのジャージー牛を親父が見て、「これを竹細工で作ってみろ」と言うんです。


▲ジャージー牛

 

タケ
それが職人の道の第一歩だったんですか。
白石さん
でも、どうしてもできない。半年以上悩んで、年が明けてもまだ思いつかない。さらに半年経って盆が来るまで悩んでたんだけど…。
タケ
1年悩み続けたんですね。
白石さん
ふと、「別にジャージー牛にこだわらなくても、身近な黒い牛でいいんじゃないか」と思ったんです。それで作ったものを親父に見せたら、喜んでもらえました。
タケ
ジャージー牛は茶色っぽい体毛ですが…色の問題だったんですか?
白石さん
いやいや、ジャージー牛は乳牛だから、お乳があるでしょう。それに、黒い牛は昔は荷物を運んだりしてたから、背中にいぐさのゴザをかけても違和感がないわけですよ。うちの牛の竹細工は首が動くように背中の部分に穴を開けるけど、この穴がゴザで隠せるんです。
タケ
なるほど。「ジャージー牛そのままを竹細工で表現するにはどうするか」が課題だったんですね。
白石さん
当時、デザインというものの知識がなかったんです。簡略化するという考えがなくて、見たままを表現することにしか考えが及ばなかったんですよ。
この牛を試しに10個ほど作って、奥津温泉に持っていったら、あっという間に売れたんです。そのあともどんどん発注が来て、湯郷温泉、湯原温泉にも卸すようになりました。

 


▲昭和45年頃の『作州牛』作成風景

 

 

竹の釘で大金持ちに…!?

 

タケ
ちょっと話が戻るんですが、白石さんのお父さんは実業家で経営の方をされてたんですよね。お父さんは竹細工をされていたわけではないんですか?
白石さん
自分ではほとんどしていなかったですね。職人さんを雇って、彼らの指揮をしてました。でも、意外と手先が器用で、決まった場所に決まった大きさの穴を開ける正確さなんかはすごかったですよ。
タケ
経営者と職人の両方の才能があったんですね。
白石さん
あと、発明家の才能もありました。特許をたくさん持ってたし、竹を使った製品を次から次へ生み出してましたよ。戦時中は、その中の一部を軍に納めたりしてました。
タケ
軍にというと、あの…軍人が竹のおもちゃで遊ぶんですか?
白石さん
違う違う(笑)戦時中は金属がなかったから、いろんなものを竹で作ってたんです。洗濯ばさみも水筒も全部竹。軍艦なんかも竹の釘で作ったりね。
タケ
竹の釘で軍艦ですか!?
白石さん
驚くことではないよ。菜種油で煎ったりして、水に耐える工夫はちゃんとしてましたから。
タケ
菜種油に寄せる信頼感がものすごいですね…。
白石さん
これで当時はかなり儲けたんですけど、たくさん納品したタイミングで終戦になったんです。するとどうなるかというと、日本軍が解体されたから、その分の支払いがされないわけですね。親父が広島の呉の基地に行って交渉したんだけど、やっぱり駄目で。
その代わりに、トラックいっぱいの菜種油をもらえることになったんです。
タケ
現物支給だったんですね。
白石さん
そうです。でも、親父はこのとき持って帰らなかったんですよ。一度津山に戻って、改めて取りに来るつもりだったのかも知れませんが、歩いて帰っているときに台風でびしょ濡れになって、長い間、肺炎で寝込んでしまって。
タケ
それじゃあ菜種油は…?
白石さん
そのまま手付かず。当時は国内に油がないですから、もし持って帰ってたら、大金持ちだったんですけどね(笑)
そんなわけで、うちはこどもが8人もいたから、税金が払えなくて、家財一式に差し押さえの赤い紙が貼られたことがありました。軍に納めていた水筒が大量に破棄されているところを親父と通りかかって、「あれはうちの水筒なんだよ」と教えられたこともあります。
辛かったですね。そんなことがあったから、作州牛をはじめ、自分がつくったモノが売れるというのは嬉しかったです。

 


▲白石さんが作成した、竹を研磨する装置。カラカラと小気味良い音が響く。

 

 

津山民藝社はダンスホールだった!?

 

タケ
白石さんのお父さんはその後もバリバリ仕事されてたんですか?
白石さん
いや。終戦から十年くらいは表立って活動していませんでした。
タケ
それはやっぱり、菜種油の一件で…?
白石さん
いや、騙されたんですよ。知り合いに騙されて、ここをダンスホールにして貸してたんです。でも、改装費を一銭も払ってもらえなくて。それがショックで親父は実業家という立場から一旦身を引いて、新しい製品開発に没頭してました。だから、ダンスホールは母親が経営してたんだけど。
タケ
そうなんですか。お母さんもすごいですね。
白石さん
でも、 「ダンスホールの子」って言われて、世間から偏見の目で見られてたね。私もひとつ上の兄もそれが嫌で嫌で仕方なかったから、兄が独立するときに二人でダンスホールを潰して、竹細工の工場にしたんです。
それから、作州牛がたくさん作れるようになって、たくさん売れるようになったから、親父は実業家として息を吹き返したんです(笑)
タケ
そうなんですね。よかった。作州牛はその後も好調に売れ続けたんですか?
白石さん
いや、いつまでも売れ続けるということはありえないから、やっぱり売れない時期が来ました。
そのころには、私に経営権があったから、工場を物産館に変えて、観光バスが停まれるようにして、お客さんを呼び込んだんです。それぐらいの時期に岡山駅まで新幹線が通ったから、ツアーのお土産に組み込んでもらったり、岡山の物産館にも作州牛を置くようにしたら、これが飛ぶように売れて。だから、たくさんひとを雇って、大きい工場を作ってね。
でもまあ、時代の流れの中でいろいろあって、いまはこうしてひとりでやっています。結局、私は経営者には向いてないね(笑)

 


▲分業で大量生産していた頃の風景。手先が器用な女性の従業員が多かった。

 

 

毎年変わる干支の玩具たち

 

タケ
白石さんは干支の竹細工もつくられていますよね。「今年はどんなのができるんだろう」と楽しみにしているファンもいらっしゃると思うんですが、干支を作るきっかけはなんだったのでしょう?
白石さん
作州牛の売り上げが陰ってきたときが寅年で、前から見本で虎の竹細工を作っていたので、「これでいこう」と売り出したのが始まりです。
タケ
来年は戌年(いぬどし)ですが、いま作られているのがそうですか?
白石さん
そうです。頭をちょんとつつくと、こんな風に揺れる作りになってます。
タケ
かわいいですね。これは12年前のものと同じですか?
白石さん
微妙に違いますよ。目のあたりとかね。よく見ると。


▲左奥から 24 年前、12 年前、今年に作られた犬

タケ
ほんとですね。耳の形も違う。
白石さん
24年前のものなんかは、顔のつくりが違うでしょう。
タケ
ほんとだ。こうやって24年前、12年前のものと並べてみると、感慨深いですね。
白石さん
私は12年前のやつの目が好きなんだけど、売れるのは24年前のやつのように白目があるものなんですよ。
タケ
だから今回の犬は白目があるんですね。
白石さん
そうです。やっぱりここが、芸術品と民芸品の違いですね。
タケ
冒頭でお話くださった通り、芸術品であれば「誰がなんと言おうと、今年も白目は入れない!」と決めて突っ走ることができますが、民芸品、すなわち「商品」だと、売るためにお客さんの声を取り入れることが大事なんですね。

 

 

―――

白石さんは話し終わるとすぐ、製作作業に戻られた。津山民藝社の室内は、再び、規則的な呼吸の音のみが聞こえる静寂な空間へと姿を変える。

ベレー帽に作務衣という出で立ち、眉間にしわを寄せた険しい表情、納得がいくまで何度も微調整を繰り返すその姿は、まさに熟練の職人であり、さきほどまで笑いながら饒舌に話してくださった方と同一人物とは思えない。

職人として、経営者として、戦後の荒波の中で自ら舵を切って走ってきた白石さん。芸術家とは異なる、民芸品作家の人生を垣間見ることができました。親子二代に渡る、興味深い物語でした。

 


▲過去12年に白石さんが生み出した干支の玩具たち。「動きがあること」と「動物の特徴を表すこと」を考えて作られている。

 

【津山民藝社データ】
住所:岡山県津山市田町23
電話番号:0868-22-4691

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タケ

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一見さんお断り風のローカルな店が大好きな旅人。そこでしか出会えないひとが持つ、そこにしかない面白さをお届けします。